木綿の着物 絣の生地の種類は?松阪木綿や伊予絣、久留米絣、薩摩絣など

着物の素材

着物といえば絹の着物ばかりが目立って、
木綿織りの着物は少なくなってしまいました。

着物自体着る人が少なくなり、
しかも、着物を着るときは特別なときということで、
普段着に着物を着る人はさらに少なくなってしまいました。

しかし、木綿の着物は肌触りもよく、
扱いも楽なので、
普段のお洒落着として、
根強い愛好家の間では、木綿絣は人気があります。

そんな木綿絣の産地とともに、
その特徴をまとめてみました。

ゆかたの次は木綿の着物でおしゃれを楽しみましょう!

  

木綿の着物 生地の種類は?

世界的に見ると、木綿は五~六千年の歴史がありますが、
日本で綿花を栽培し、木綿布を織り始めたのは、五百年ほど前からです。

江戸時代になると、
三重県の松坂、愛知の三河、栃木の真岡、大阪の河内、
福岡の博多や小倉などが木綿の産地になり、
麻に代わって、
浴衣や普段着の着物の材料として用いられるようになりました。

やがて江戸後期になると、
それまでの縞や格子柄のほかに、絣柄が織られるようになって、
庶民の衣服生活がいっそう豊かになって行きました。

絣とは、先染めの模様表現のひとつで、
糸の一部を、地色に染まらないように括ったりして、
織り上げる模様のことです。

現在は、紬も盛んに織り出されていますが、
初めは木綿の模様として発達したので、
絣柄を得意とする産地の木綿は、
『○○絣』という名前で呼ばれるようになりました。

一時期は絹織物に押されて顧みられなかった木綿織物ですが、
最近は、肌に添う風合いや素朴な色柄が、
着る人や見る人を和ませる着物として愛好者が増えています。

木綿の着物 絣の生地の種類 松阪木綿と久留米絣

松阪木綿

松阪木綿の名が全国的に有名になったのは、
江戸初期の元禄年間のことで、
以来、この縞木綿は『松阪嶋』と呼ばれて、江戸庶民に愛されました。

当時、国産の縞といえば横じまが多かった中で、
キリっとした藍の直線的な縦縞は、非常に新鮮に映ったようです。

明治以降、
機械織りに押されて廃れてしまった手織りの松阪木綿を復興させようと、
昭和五十五年からこの縞柄に魅せられた松阪の人たちが、
様々な活動を始めました。

国の無形民俗文化財に指定され、
松阪木綿振興会の手織りセンターが開設される中で、
江戸末期の縞帳にある縞柄を復元したり、糸や染に工夫を凝らしたりして、
手織り松阪木綿は息を吹き返しています。

久留米絣

木綿絣といえば久留米絣と言われるほど有名なこの絣は、
江戸時代後半に“井上 伝”という十二歳の少女の手で考案されました。

当時の久留米藩は、木綿と藍の産地で、
農家の副業として藍木綿が織られていました。

井上伝は、着古した藍木綿の一部が色落ちして白い斑になっているのを見て、
その布を解いて絣糸の着想を得たと伝えられています。

白い模様が入ったこの藍木綿はたちまち評判になり、
近郊からこの技術を学ぼうと人々が集まってきて、広まりました。

明治半ばから戦後まもなくまで、
機械紡績の糸、機械織り、化学染料といった近代化の波を受け、
締機(しめばた)が考案されて多様な小柄絣が織られるようにもなりました。

こうして多様な絣柄を廉価で大量に供給を続けていた中、
久留米絣は昭和三十二年に重要無形文化財に指定されました。

手括りの絣糸を使い、
純正天然藍で染めて、投げ杼の手機で織りあげるという、
伝統的な技法は今も守り続けられています。

久留米絣は、濃紺、浅葱、白がスッキリと目立つ縦横絣で、
簡素で丈夫という江戸時代の定評のまま、
現代の洒落着になっています。

木綿の着物 絣の生地の種類 伊予絣と薩摩絣

伊予絣

現在の愛媛県、伊予の松山は、
久留米や備後と並ぶ日本の三大絣の産地です。

伊予は江戸時代、木綿の栽培が盛んで、各家庭で綿織物が織られていましたが、
ほとんどが藍無地か縞や格子柄でした。

柄のものは松山縞や伊予縞と称され、京都や大阪で商いされていました。

一方、絣柄は今から二百年ほど前に、
“鍵谷 カナ”という女性が、かやぶき屋根の葺き替えの時に見た、
押し竹を縛った跡に心を惹かれ、工夫を重ね織り上げたと言われています。

現在、絣糸は自動絣括り機で染め、
色絣の場合は、あとで白い部分に色を刷毛で摺込みます。

生産反数としては、
多彩な色絣糸を使って動力機で織った伊予絣の方が多いのですが、
天然藍を使い、高機や足踏み織機のような手機で織った、
藍地に白のすっきりした伊予絣も健在です。

伊予絣の模様には、伝統的な絣柄や縞、格子のほか、
モダンな幾何学模様もあります。

薩摩絣

薩摩絣ほど、
時代とともに産地や織物の風合いが変わった木綿絣はないかも知れません。

江戸時代初期の薩摩絣は琉球産で、
そのため、ごく最近まで薩摩絣は琉球絣とも通称されていました。

十八世紀半ばになると、絣は鹿児島でも織られるようになり、
西郷隆盛が好んで着ていたのが、井桁絣や蜻蛉絣のこの着物です。

その後、久留米絣に押されて衰退してしまいましたが、
戦後、宮崎県都城市を中心に再び織られるようになって、
その風合いも色柄もガラリと変わっていきました。

非常に細い糸を用いた、しなやかな生地、
白薩摩と呼ばれる伝統的な白地や紺薩摩と呼ばれる藍地だけでなく、
草木染の地色の薩摩絣もあり、大島紬のような精緻な絣柄が特徴です。

現在の薩摩絣は、木綿絣の中で最高級品と言われ、
晩春や早秋の単衣の季節に似合うさらりとした肌ざわりや色が好まれています。

木綿の着物 絣の生地の種類 備後絣と弓浜・倉吉・広瀬・出雲絣

備後絣

備後絣は、広島県福山市や芦品郡一帯で産する木綿絣です。

江戸時代末期に、井桁絣を織り出して商品化し、
明治時代半ばには、絣糸を機械で作る機械括りが考案され、
昭和の初期には動力機を導入するなど、
各時代の先端技術で織り続けられてきました。

昭和三十年代には、日本最大の絣の産地でしたが、
その後、生産高が減っていきました。

それでもなお備後絣は、
素朴な模様と手頃な価格が魅力の藍絣です。

弓浜絣・広瀬絣・倉吉絣・出雲絣

弓ヶ浜は米子市や境港市一帯を指す地名で、
広瀬は弓ヶ浜から南へ約三十キロのところにある古い城下町です。

この二つの地が山陰の絵絣の中心地です。

弓浜絣は浜絣とも呼ばれ、その技術が広瀬絣へ、
そして倉吉絣や出雲絣へと伝わっていきました。

なかでも弓浜絣と広瀬絣は、
幕末から明治にかけて人気のあった絣です。

弓浜絣は、もともと自家用や副業として織られていた絣で、
滲んだような絣足が特徴です。

絣足を気にするより、自分なりのデザインに精魂を尽くしたというような、
楽しい絣柄がたくさんあります。

一方、
広瀬絣は『広瀬の大柄、備後の中柄、久留米の小柄』と言われるように、
大きな絣柄が特徴で、
一時は久留米絣を凌ぐほどの生産量がありました。

織り上げられた絣柄は、絣足と呼ばれるズレが少なく、
幾何学模様と絵絣が一幅に織られたものが多く、
風雅な雰囲気を持った藍絣です。

また、広瀬絣だけが絣を作るときに基準として用いる種糸を作らず、
型紙を作って緯糸に墨付けをします。



あとがき

絣の着物って温かみがあって素朴で、
何より『キモノ着ましたー!』っていう感じじゃないところが素敵です。

生地もしっかりしているので、
着やすいし、丈夫です。

多少、雑に扱っても平気なので、気負わずに着て楽しむことが出来ます。

木綿絣の着物は、きもの界のジーンズですね!