天皇家には苗字がありません。
苗字は、自分の親族と他人を区別する符号です。
ですから、
苗字は公式の場には欠かせないものとされていました。
つまり、名字が『自分の親族と他人を区別する符号』
という性格をもっていたために、
天皇には名字は必要ないと考えられてきたのです。
宮廷という狭い世界で生活していた天皇の出自は、
誰の目にも明らかであったからです。
天皇に近い皇族にも名字は不要でした。
宮廷の誰もが、
その皇族が天皇の親族であることをわかっていたからです。
天皇家が苗字を持たない理由
★姓を名乗った天皇家の先祖
天皇家の先祖が姓を用いていた時代があったのです。
天皇号がつくられる前の、四~五世紀のこと、
そのころの日本の君主は『大王(おおきみ)』と名乗っていました。
大王が天皇に変わったのは七世紀末のことですが、
四~五世紀の大王は、“倭(わ)”の姓を称して、
倭讃、倭珍 などと名乗って中国と通交していました。
この“倭”は、中国風の姓で、
中国では姓を持たない者は、
文明人ではないと考えられていたからです。
ところが五世紀末ごろの大和朝廷で、
大王に従った者に、
『かばね』と呼ばれるものを与える習俗がつくられたのです。
『臣(おみ)』『連(むらじ)』などのかばねは、
豪族を格付けするものでした。
『臣』の格を持つ豪族の数も、
『連』とされた豪族の数も、きわめて多かったのです。
そこで大王は、家々を区別する名称も含めた
『蘇我臣』『中臣連』といったものを、
“かばね”と呼んで豪族たちに授けたのです。
天皇は姓を授ける者
「かばね」は七世紀に「姓」と漢字表記されて、
『せい』とも読まれるようになりました。
そして、大王(天皇)は、国内で唯一の、
姓を授ける資格をもつ君主であるとされたのです。
そのため、王家(皇室)は、姓を授ける側の王族(皇族)は、
姓を名乗るべきではないと主張したのです。
つまり、
藤原・源・平 などの姓を持つ者は、
すべて天皇の臣下とされたのです。
大王は中国に使者を送るときには、
中国風の姓を用いていました。
しかし、倭の五王の最後の王である“倭王武”が、
五世紀末に、
「今後は献上名を送って中国に媚びるべきではない」と考えて、
自分を多民族の支配を受けない、
日本と言いう一つの世界の君主であると位置づけたのです。
こういった王家の転換をきっかけに、
「かばね」の制度が整えられていきました。
その後、平安時代の宮廷では、
君主である天皇が姓を用いないことは、
当然のこととされてきました。
そのため、鎌倉時代に公家が自分の家を他者と区別するために、
名字を用いるようになった時にも、
天皇に名字は不要だとされたのです。
しかし、
天皇家に名字は必要ないとされたのですが、
公家に名字が広まっていった時期に、
それに関連するかたちで天皇家には家紋がつくられています。
親王から諸王へ、宮家とその名字
古代天皇制が確立した八世紀初めに、
皇族の扱いに関する規則も整備されていきました。
それは、701年に制定された『大宝律令』によるものです。
そこには、
天皇の子を親王として、
親王の子を王とすると規定されています。
王号を持つ者を『諸王』と呼ぶこともあり、
天皇から数えて五代目までの子孫は、
王号を名乗ることができるとされているのです。
これは、
六世紀はじめに応神天皇の五代目の子孫である第26代継体天皇が、
王位に就いた先例をふまえたものです。
第25代武烈天皇が子供を残さずに没したときに、
越前から継体天皇を迎えて王位を継がせたのです。
それゆえ、
五代目の王までは天皇になる資格を持つとされたのです。
なお諸王でも、天皇から特に親王宣下という命令を受けた者は、
親王号を名乗ったということです。
親王や王を名乗る皇族は、姓も名字も持たないのです。
そして皇族が臣下になるときに、天皇から姓が与えられたのです。
このような皇室から分かれた家の者は、
思い思いの名字を自称することになるのです。
五代目の王になる前に、
姓を授かったものも多かったようです。
例えば、桓武平氏の例を見てみると、
桓武天皇の子が葛原親王で、その子が高見王です。
そして、高見王の子が平の姓を与えられて、
『平 高望(たいらのたかもち)』となっています。
★現在の皇族
戦前は多くの宮家がありましたが、
現在では、
桂宮・高円宮・三笠宮・常陸宮・秋篠宮 の五宮家しかありません。
これらの宮家は、
大正天皇の皇子以後の世代の皇子がおこしたものです。
戦後の宮家でも、
後継者がいないために断絶が確定している『高円宮』の例もあります。
宮家の宮号は、名字ではありません。
宮家の方々は、
たとえば、
『秋篠宮文仁親王(あきしのみやふみひとしんのう)』
といった形で、皇族であることをあらわす親王号を名乗っています。
ここに挙げた宮家より、さらに天皇家と疎遠な、
旧華族はというと、
戦後に皇室から分家して臣下になった家々となります。
★名字をもらった皇族と伏見宮の流れをくむ宮家
原則として、
皇室から分かれた皇族の家は五代限りのものとされました。
ところが、
南北朝時代に、伏見宮家を特別扱いする制度が作られたのです。
これは皇室の本家が断絶したときに備えて、
伏見宮家を本家の後を継ぐ資格を持つ、
特別な家にするというものです。
そのとき北朝の崇光天皇の子
『栄仁親王(よしひとしんのう)』が伏見宮家を名乗り、
崇光天皇の弟にあたる後光厳天皇(ごこうごんてんのう)の子孫が、
天皇家の本流とされたのです。
もっともこの時代の皇室は、
北朝と南朝に分かれて争っていたため、
伏見宮家は、南朝の了承なしに立てられたものです。
しかし、南北朝争乱のあと、北朝が正統とされたために、
伏見宮家の地位も公認されたのです。
伏見宮家からは、久邇宮、北白川宮など、
有力な宮家が分かれています。
明治以後の賜姓皇族
明治維新のときに、明治天皇と比較的近い血縁関係にある、
有栖川宮、閑院宮、伏見宮家の流れをくむ宮家も皇族とされました。
しかし、戦前に 栗田家、上野家など、
十二家が皇室を離れて名字を持つ臣下になりました。
このような家は『賜姓皇族(しせいこうぞく)』と呼ばれます。
終戦の時には十四の宮家がありましたが、
GHQの指示によって、
昭和天皇の叔父や弟が当主をつとめる宮家以外の十一家が、
賜姓皇族とされました。
このとき臣下になった 朝香宮や閑院宮などは、
“宮”の号を取った 朝香や閑院などを名字にしました。
皇室に次ぐ格の家として、南北朝時代以来続いた多くの宮家が、
外圧によって廃されたのです。
ニュースなどで耳にする「○○の宮様」というのは、
天皇から与えられる宮号なので、苗字ではないのです。
明治時代の戸籍と名字
『姓』の起源は、
天皇がまだ大王と名乗っていた大和時代にあります。
その時代に大王に従っていた者に対して、
与えられた名称が『姓』なのです。
江戸時代末までは、
多くのものが名字と姓を持っていました。
しかし、明治政府が欧米にならった戸籍を作ろうとしたときに、
名字と姓の併用が問題になりました。
その時に、
欧米の先進国にならって、
家を表す一つの名前と一つの個人名とを、
戸籍に登録する方針が取られたのです。
こうなると、姓か名字のいずれか一方を戸籍に記すわけですが、
『姓』を戸籍に記すと、
多くの人が「藤原」「源」「平」などの姓になり、
家と家の区別がつきにくくなります。
そのために、
明治維新後まもなく、
名字が家を表す正式の名称とされました。
朝廷では古くから『姓』が正式の名前で、
名字は私称したものに過ぎないとされていたのです。
しかし、明治初年になってからは、
武士がつくった通称である『名字』が、
正式の名前として認められたのです。
天皇家の紋『菊の紋章』のおこり
公家集の間に家紋が流行すると、
天皇家も家紋を用いるようになりました。
公家の衣服や調度品に、
家ごとに代々受け継がれる優雅な文様が描かれているのに、
皇族の衣服や調度品に文様がないのは良くないと考えられたのです。
そのため、皇室の『十六弁八重表菊』の御紋章が作られました。
菊は、中国の貴族たちの好まれた花で、
中国では古くから観賞用の菊が栽培されていました。
菊は、延命長寿の薬ともされ、
九月九日の重陽の節句では、
杯の酒に菊の花を浮かべた菊酒もあり、
薬用のめでたい花とされていたのです。
菊は、
平安時代はじめに日本に伝えられ手広まったようです。
さらに平安時代半ばには、菊の花が文様となり、
貴族たちの衣服や調度品に多く用いられるようになりました。
そして、平安時代の貴族が、
自家の牛車を他者のものと区別するために描いた文様をもとに、
家紋が作られたのです。
このあと、鎌倉時代初めに、
藤原氏や源氏などの貴族の血縁集団が、
多くの公家の家に分かれたのです。
この動きに合わせる形で、
公家のすべてが自家を他者と区別するために、
衣服や調度品にも紋章を用いるようになり、
その紋章が牛車の持ち主をあらわす印から、
家をあらわす印へと変わっていったのです。
★後鳥羽上皇と菊紋
紋章は、公家の間に急速に広まって行きました。
この動きを見た後鳥羽上皇が、
自分の持ち物に菊の文様を描かせるようになりました。
後鳥羽上皇は、
鎌倉時代はじめの朝廷を動かした優れた政治家で、
歌人としても知られ、
絵画や音楽、そして菊の花を好む風流人であったそうです。
ですが、上皇が鎌倉幕府を倒すために挙兵した
『承久の乱(1221年)』が起きています。
後鳥羽上皇が菊の紋章を用い始めると、
公家たちは菊紋を用いるのを遠慮するようになっていったのです。
このようにして菊の紋章は、
皇室に欠かせない紋章となっていったのです。
しかし、菊の紋章を正式に皇室の紋章としたのは、
鎌倉時代末の後宇多天皇であるとされています。
この後、宇多天皇の子が、
建武の新政を行った後醍醐天皇なのです。
皇族や皇室から分かれた家は、菊紋を用いてきましたが、
このほか、足利一族など菊紋を許された家もあるのです。
★宮家の紋章 皇室の十六弁八重表菊
明治二年(1869年)に、
太政官布告の形で皇室の紋章が正式に定められました。
そこには『皇室は十六弁八重表菊を用いる』とありました。
菊の御紋章は、天皇の衣服や調度品に用いられたほか、
国家的に権威付けられた特別なものにも付されました。
戦前の紙幣や郵便切手には、菊の御紋章が印刷されていましたし、
軍艦の舳先にも菊の御紋章が飾られていました。
現在では、法令上明確な国章は定められていませんが、
伝統的に天皇が紋章として使用し、
今日でも皇室が事実上の家紋として使用している十六八重表菊が、
慣例として国章に準じた扱いを受けています。
国章のような扱いをしている事例としては、
日本の在外公館では「菊の御紋」が掲示されていて、
パスポートの表紙に、
菊の御紋章の形をした金箔が押されています。
★多様な宮家の紋章
皇室の御紋章が定められた明治二年に『十四弁一重裏菊』が、
皇族共通の紋章とされました。
さらに各宮家は、
各々が独自の菊の変形紋を用いることになりました。
秋篠宮家
常陸宮家
三笠宮家
常陸宮家や三笠宮家は、
菊の周囲に別の図案を付した家紋を用いています。
天皇や皇族に戸籍がないのはなぜ?
天皇を含め皇族の方々は戸籍を持っておられません。
姓も戸籍もない天皇と皇族は、一般国民ではないのです。
ですから、一般国民が持っているさまざまな自由や権利も、
制約されることになります。
たとえば、選挙権もなければ、
表現の自由や移動の自由、職業選択の自由もありません。
皇室の場合、戸籍にあたるものは、皇統譜ということになります。
名字はありませんから、
皇統譜には、愛子、悠仁といった名前だけが書かれ、
生年月日、親の名前などが記録されています。
女性皇族が結婚して皇籍を離れる場合には、
皇統譜から除かれ、
夫となる人の戸籍に入り、夫の姓を名乗ることとなります。
皇室典範では、皇室会議の承認を得ることができれば、
15歳以上の内親王、王、女王は、本人の意思に基づいて、
皇族の身分を離脱できると定められています。
ですから、皇族会議の承認をもらえれば、
結婚する前でも皇籍を離れることができるわけです。
しかし、皇族男子にはそういう自由がありません。
さらに結婚も、
皇族を始め内閣総理大臣や、
宮内庁長官ら10名で構成される皇室会議の承認が必要で、
個人の意思だけで結婚することはできません。
当然、結婚をしても皇族のままです。
現在の皇室典範では、
皇族として生まれた男性は、
一生、天皇あるいは皇族として生活しなければならないのです。
(引用:『池上彰の「天皇とは何ですか?」』)
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あとがき
誰にでもある「みょうじ」ですが、
『名字』と『苗字』
どちらの表記が正しいのか…難しいですね。
『名字』は、もともと武士の領地の地名でした。
平安時代末に、
関東の武士がはじめて『名字』を名乗ったのです。
名字は自分がその領地・名田(みょうでん)の領主であることを、
武士仲間に示すためのものでした。
『苗字』は、江戸時代に生まれた言葉で、
遠い子孫、末孫を示しています。
簡単に言うと『苗字』は、「家の名」という意味の言葉なのです。
何となく『苗字』のほうが古そうですが、
実は『名字』のほうがはるか昔から使われていたようですが、
現在ではほとんど使われていません。