今でも行われている針供養をご存知ですか?
この針供養と言われる行事が、
いつ行われるどんな行事なのか、
また、針供養を行っている神社はどこなのか、
その由来や歴史についてまとめています。
神話に出てくる『針』についてのお話もお伝えします。
針供養とはいつ行われるどんな行事?
2月8日と12月8日は、年に2回の針供養の日です。
普段、裁縫などに使用している針に感謝し、
折れた針を供養する行事ですが、
地方によっては、どちらか一方に日に行うところもあれば、
両日とも針供養を行うところもあります。
主に関東では2月8日に、
関西や北陸・九州などでは12月8日に行われる事が多いそうです。
針供養の多くは、折れたり古くなったりした針を、
豆腐やこんにゃくに刺して海に流したり、紙に包んで流したり、
地中に埋めたりして供養します。
その日、日々の針仕事で使っている針を休息させるとともに、
針仕事している女性は、一日は針仕事を休む日とされています。
針供養では、裁縫の上達と、
針仕事でケガをしないことを願い供養します。
富山県や石川県では『針歳暮(はりせんぼ)』とも呼ばれ、
この日は針には触れず、饅頭や大福を食べたり、
知人に贈ったりする習わしが残っています。
次第に家庭で針仕事を行うことが少なくなっていくにつれ、
針供養を見かける機会も少なくなっていますが、
服飾関係の分野では、この習わしが根付いていて、
和裁や洋裁の教育機関や企業では、
現在も針供養が行われています。
針供養の神社はどこでその由来と歴史は?
裁縫の神様をお祀りした神社 淡嶋神社
針供養で有名な和歌山県の『淡嶋神社』は、
全国にある淡島神社や粟島神社、淡路神社の総本社で、
加太神社とも呼ばれています。
淡嶋神社は、裁縫の神様をお祀りしたことから、
針供養に結びついたとされています。
現在、針供養は裁縫関係者の行事のようになってしまいましたが、
明治時代の中頃までは、
全国の女性が裁縫の技術を学んでいましたので、
針供養は、全国どこでも盛んに行われていました。
ちなみに、淡島神社では人形供養なども行われています。
もともと、婦人病や安産など、
とかく女性の病気にご利益があるとされていた淡島明神への信仰が、
江戸時代に大流行するのですが、
そのきっかけは、物売りを兼ねた淡島願人(あわしまがんじん)と呼ばれた、
放浪のお坊さんたちが、
家々に門付けする際に唄っていた祭文(歌の形をした語り物)の歌詞にあるようです。
それは、アマテラスオオミカミの第6番目の姫が、
16歳の春に女性特有の病気にかかった時、
巻物と神楽を小舟に乗せて堺の浜から流したところ、
あくる日に淡島に流れ着きました。
その巻物を取り出し、ひな形を作ったのですが、
これが雛遊びの始まりで・・・という内容の後に、
丑寅の御方は針さしそまつにせぬ供養♪・・・
紀州なぎさの郡加太淡島大明神♪
身体賢固の願、折針をやる・・・♪
と、続くのです。
このような、淡島願人たちの歌によって、
針を供養する信仰が広がっていったようです。
淡島神社は、雛流しや人形供養でも有名な神社です。
ですから、針供養というのは、供養という名前がついてはいますが、
仏事でも神事でもないのです。
最近では、裁縫の専門学校などでも、針供養が行われたりしますが、
それこそ、本来の姿であり、針に感謝する気持ちがあれば、
それでいいというのが針供養だという事なのでしょう。
「針供養 宗旨も知れず 寺もなし」古い川柳にも、こう読まれています。
「淡島神社」は、針供養の神社でも最も有名で、
毎年2月8日には「針祭」の神事が行われます。
全国から納められた針を御祓いし、「針塚」に納め、
塩をかけた後、土に返すことで、針の労をねぎらい、
今後の上達を祈る祭りだそうです。
「針塚」
神社によると「少彦名命」(すくなひこなのみこと)は、
裁縫の道を初めて伝えた神様としていますが、
男の「少彦名命」が裁縫の神様とはちょっと納得しづらいところです。
しかし、少彦名命は、「薬の神様」「酒造りの神様」「温泉の神様」とも云われ、
とても多才で器用な神様です。
神話では、大己貴命(おおなむちのみこと)を助けて国造りをした後、
淡嶋の地から常世の国に行ってしまったとあります。
懸命に働き、急にいなくなった少彦名命に、
人々はありし日の思い出から、
このような神様だったと言い伝えてきたのではないかと思います。
使い捨てが氾濫する現代では、家庭で衣服を修理して着たり、
服を手作りすることがなくなってきました。
家庭から針が消えてゆく時代も来るのかもしれません。
針供養で有名な神社仏閣
🌸淡嶋神社(あわしまじんじゃ)
住所: 和歌山県和歌山市加太116
🌸大阪天満宮
大阪府大阪市北区天神橋二丁目1番8号
🌸法輪寺
京都府京都市西京区嵐山虚空蔵山町
🌸浅草寺
東京都台東区浅草2-3-1
🌸護王神社
京都市上京区烏丸通下長者町下ル桜鶴円町385
🌸粟嶋堂宗徳寺
京都府京都市下京区三軒替地町124
🌸縫殿神社(ぬいどのじんじゃ)
福岡県津屋崎町
針供養と神話に出てくる『針』のお話し
衣服を作るときには、布を縫って繋げるわけでが、
針は布を縫うときに必要な道具となります。
古代、針という物が、文献に登場するのは、
日本最古の書籍と言われる『古事記』の中の、
「海幸・山幸」の神話です。
「海幸・山幸」の神話は、有名なお話ですで、
ご存知の方も多いことと思います。
天照大御神(アマテラスオオミカミ)の孫で、
高天原(たかまがはら)から天孫降臨されてきたことでで有名な、
瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が恋に落ち、
木花之佐久夜毘売(コノハナサクヤヒメ)と結婚しました。
そして二人の間に生まれた兄弟が、
兄の火照命(ホデリノミコト)と、弟の火遠理命(ホヲリノミコト)でした。
兄は海の漁師をして生計を立てていたので海幸彦と呼ばれ、
弟は山の猟師だったので山幸彦と呼ばれていました。
あるひ、弟の山幸彦は、兄の海幸彦に、
「俺の弓矢とアニキの釣り針を、一度、取替えてみないか?」と、誘いました。
しかし、大事な釣り針を渡すことはできないと海幸彦は拒むのですが、
山幸彦に何度も頼み込まれ、しぶしぶ交換に応じました。
山幸彦は、生まれて初めての魚釣りを楽しみますが、
魚は一向に釣れず、それどころか、兄の大切な針をなくしてしまったのです。
針をなくしてしまったことを兄に話した山幸彦ですが、
兄の海幸彦は、どうしても針を返すようにと食い下がります。
兄 海幸彦にとって釣り針は、
生計を立てるための大切な道具だったのですから・・・
山幸彦はしかたなく、
自分が大切に持っていた十拳剣(とつかのつるぎ)を潰して、
500の針をつくりました。
そして、この500本の針で許してほしいと懇願するのですが、
山幸彦は、どうしてもあの針でなくてはだめだと突き返します。
途方にくれた山幸彦が、針をなくした海岸で思い悩んでいると、
そこに現れたのは、潮路を司る塩椎神(シオツチノカミ)でした。
思い悩んでいる山幸彦を見て、塩椎神はその訳を訊きます。
山幸彦は塩椎神に、経緯のすべてを話しました。
すると、塩椎神は一つの籠を取り出して小舟を造り、
山幸彦に、その船に乗るように言います。
その船でしばらく行ったところに、海の神の宮殿があり、
そこにいる海の神の娘が助けてくれるというのです。
塩椎神の言う通りに、小舟に乗って宮殿に向かった山幸彦・・・
海の神の宮殿で迎えてくれたのは、
海の神である綿津見(ワタツミ)の娘 豊玉毘売(トヨタマヒメ)でした。
宮殿では山幸彦を迎え入れ、素晴らしいごちそうや、
鯛や平目の舞い踊りで歓待してくれたのです。
気が付くとあっという間に三年の月日が流れ、
だんだんと毎日の宴会にも飽きてきた山幸彦は、わが家が恋しくなってきました。
山幸彦が、我が家を恋しがり沈んでいることに気づいた豊玉毘売が、
父親の海の神に告げ、
海の神は、山幸彦から亡くした針の話を聞き出しました。
すると、海の神が言うには、
その針は、鯛の喉に刺さっていて針ではないかと・・・
そして山幸彦がなくした針は見つかり、
海の神がその針を返すとき、
『游煩鉤(おぼち・ネクラ針)、須須鉤(すすじ・イラチ針)、
貧鉤(まじち・貧乏針)、宇流鉤(うるじ・アホ針)』と、
謎の呪文を唱えて後ろ向きに渡しました。
その時、これからは、常に兄のする事と反対の事をやっていれば、
兄は、絶対に不幸になって、山幸彦は幸せになると教えてくれました。
そして、もし兄が弟をうらやましがって攻めて来た時のため、
海の満ち干きを自在に操れる
塩盈珠(しおみつたま)と塩乾珠(しおひるたま)という宝物までもらって、
一路帰宅します。
その後、海の神 綿津見の言った通りになって、
兄は、山幸彦の家来となったと言うお話です。
この物語に出てくる針は釣り針ですが、
古代には、鉄の針は、ごく一部の上流階級の人のみが使用していて、
大変貴重な物だったという事がわかります。
一般には、
竹や木、獣の骨や魚の骨で作られた針を使用していたそうです。
そのように大変貴重だった針の大量生産が始まるのは、
現在の着物の形の基礎ができあがった室町時代の頃からです。
最初は、京都の姉小路と言うところで作られ、
後に御簀屋(みすや)で作られるようになったので『みすや針』と呼ばれました。
いまでも京都の『みすや針』は、裁縫をする人、
特に和裁をする人には有名で、
わざわざ京都まで買いに来る人もいるほどです。
一方、同じ時期に別のルートで中国から伝わった手法を使って、
長崎でも針が製造されていました。
そんな針のための『針供養』が行われるようになるのは、
江戸時代頃からです。
あとがき
幼い頃、おばあちゃんにお裁縫を教わりました。
それが私の人生に大きな影響を与えてくれたことは確かです。
針を持つおばあちゃんの手が、まるでゼンマイ仕掛けのように、
規則正しく動き続けるのを、傍で見ていた日、
一枚の布が着物になって行くのを見ていました。
縫うことの楽しさを教えてくれました。